予定説と予知説について

  

  【予知説について】

・「予知説」とは、その人が恵みに適格であるかどうかを、神が事前に予知し、適格であろうと予知される者を救われる者として選び、邪悪と不敬虔に傾くであろうと予知される者を滅びに選んだという説。カルヴァンはこの説を否定する。

 

 カルヴァンは、その立証の1つとして、まずイエス・キリストのことを挙げている。

 イエスは正しい行いをしたから(あるいは、そうするであろうと思われたから)神の子とされ、マリアから生まれたわけではない。価なくして、このような栄誉を与えられたのである。

 

 つまり、カルヴァンにとっての選びとは、天地万物が創造される前からの選びなのです。

 人が生まれてから(受胎してから)、この人は適格だ or 不的確だ、あるいは敬虔な人になるだろう or 邪悪で不敬虔な人になるであろうと、将来を予見(予知)して、神は人を選ぶのではないのです。 

 

 天地万物が創造される前からの選びについては、エペソ1:4で「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び・・・」と記されている。

 つまり、聖い者だから私たちを選んだのではなく、また聖い者になると予見(予知)して私たちを選んだのでもなく、私たちを聖い者にするために神は私たちを選びたもうたのです。

 

 またエペソ1:6では「これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。」とあるように、私たちが神の恵みをほめたたえるためでもあるのです。

 

 もし神がその人の行いが将来どうなるかと考えて選ばれたのであれば、その選びは価なしの選びではなくなってしまう。(カルヴァン

 

 

  【使徒たちの言葉より】

 またローマ9:11~12には「まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、わざによらず、召したかたによって行われるために、『兄は弟に仕えるであろう』と、彼女(リベカ)に仰せられた。」と書いてあります。ここからも、行いによらないということが分かります。(4)ヤコブとエサウの区別(選び)は、生まれる前からの決定であるから、行いは全く顧慮されていない。

信仰者の救いは、価なしの召しにより、ひとえに神の選びの決定に基礎づけられる

 

 さらに、ローマ9:15~16には「『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。」と書いています。

 

 またペテロは「父なる神の予知されたところによって選ばれ(1ペテロ1:2)」と述べている。