「祈りは聞かれていた」2017年12月10日 礼拝説教

 

「祈りは聞かれていた」

聖書: ルカ福音書 1章 5~20節

 

  ザカリヤとエリサベツ

 ザカリヤとエリサベツの夫婦には子どもがなかった。
 彼らは、神様に仕え、神様を礼拝しながらも、子どもが与えられるように神様に祈り続けてきたことでしょう。しかしいくら祈っても、その祈りはなかなか聞かれなかったのです。しかしそれでも、彼らは一生懸命に神様を愛し、神様に仕え続けたのです。私たちはどうでしょうか。私たちは願いや祈りがなかなか聞かれないと、「自分には何か足らない所があるんじゃないか」と思ってしまうこともあります。またあるいは「神様は自分たちの願いを聞いてはくださらない。自分たちの願いは神様に退けられてしまった。自分たちは神様から愛されていない」と思ってしまうこともあるでしょう。しかし決してそうではないのです。

     神からの告知
 ある日、ザカリヤが神殿の中にある聖所で、お香を焚いていました。すると、そこに神様の御使いが現れ、ザカリヤにこう言いました。
  「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」 (ルカ 1章 13~14節)
 しかし、この告知を聞いたザカリヤは、神の御使いに、こう言いました。
 「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年を取っています。」 (同 18節)
 ザカリヤは、せっかく「あなたに念願の子どもを与えるよ」と神様が語ってくださっておられるのに、その御言葉を信じることが出来なかったのです。ここでザカリヤは「わたしは老人ですし、妻も年を取っています。」と言っております。つまり、この時、ザカリヤは、自分たちがもう子どもが産めない体であるという自分たちの能力、自分たちの無力さばかりに目が行ってしまっていたのです。「自分たちには出来ない」と思い込んでしまっていたのです。彼は、目に見える状況ばかりに、どう考えても不可能にしか思えない状況ばかりに左右されてしまい、そのために、信仰の目が曇ってしまっていたのです。そして彼は神様の全能の力が信じられなくなってしまっていたのです。

     祈りは聞かれていた
  さて、ザカリヤとエリサベトの夫婦は、結婚した時から、ずっと子どもが与えられるように祈ってきたと思います。しかしついに子どもが与えられないまま、年を取って、もう子どもが産めない体になってしまいました。そしてその時点で、もう子どもは与えられないと思い、諦めてしまっていたと思います。ザカリヤたちは、自分たちの祈りは聞かれなかったと思っていました。しかしそうではなかったのです。聞かれないと思っていた彼らの祈りは、ちゃんと聞かれていたのです。神様は彼らの祈りをちゃんと聞いておられたのです。私たちは、神様は私の祈りをなかなか聞いてくださらないと思うこともあるかも知れません。しかし、ピリピ書の中で、パウロは「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。」と言っております。私たちに願い事を起こさせるのも神様です。そしてその願い事を実現に至らせてくださるのも神様なのです。神様に不可能なことは何もないのです。

 あなたはどうでしょうか。お祈りしているのに、半信半疑であまり信じていなかったり、祈ってはいるけれども「たぶん駄目だろうなぁ」と諦めかけてしまっているようなことはないでしょうか。今日、神様は、そんな私たちの不信仰を打ち破ろうとしておられます。「私はあなたの祈りをちゃんと聞いているよ」「神に不可能なことはありません」だから、あなたは「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と私たちに語りかけておられます。神様は、今日、私たちの信仰と祈りをもう1度、呼び覚まそうとしておられるのです。
 今、皆さんの信仰の火、祈りの火は消えかけてはいないでしょうか。神様はあなたの祈りをちゃんと聞いておられます。ですから、私たちは、今日、もう1度、私たちの信仰を、私たちの祈りを奮い立たせようではありませんか。そして神様はあなたの祈りを待っておられますから、もっと大胆に神様に祝福を求めて祈って参りましょう。